聖書が伝える福音

聖書が私たちに与える喜び、平安はどんなものでしょうか。

みなさんに、喜び、平安とは何ですかと尋ねたらなんとお答えになりますか。ある方は「戦争の無い平和な世界」、またもっと身近な「愛する家族」と言う方もおられるかも知れません。

病の中にある人、仕事に情熱を注いでいる人。人の生活は様々で、それぞれに思うところは違うと思います。

 

聖書にこう書かれています。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」     (マタイの福音書4章4節)

 

確かに平和や、愛情、健康、仕事は大切なものですが、それだけでは十分ではなく、むしろもっと大切なことが見過ごされていると聖書は私たちに訴えています。聖書のことばをもう一つ、

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」        (ヨハネの福音書3章16節)

 

聖書は、すべての創造者である唯一の神がおられること、またこの方は私たちを愛していることを伝えています。

 

神が、ご自身に似せて創造した人をどれほど愛しておられるかは、聖書によらなければ正しく理解することはできません。

神の愛は、あまりにも大きく、そのひとり子のいのちを私たちのためにお与えになったほどと伝えます。

 

神は、聖書によって私たちに語りかけていますが、私たちは神の声に耳を傾けようとしません。聖書は、神を知ろうとしない人間に正しい神のさばきがあることを厳粛に伝えています。

 

しかし、神は私たちに、ひとり子であるイエス・キリストによって、さばきに会わずに救われる道を示されました。神が遣わされたイエス・キリストを救い主と信じるなら、この救いに与ることができると約束されました。

 

私たちのたましいは死で終わるものではありません。死後と永遠のことについて私たちは知ることはできませんが、神は聖書によって、私たちの知ることのできない死後について明らかにされました。イエス・キリストの十字架は、私たちに喜びと平安あたえるために、神が用意してくださった救いのしるしであると聖書は伝えています。

 

「わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。」     (ヨハネの福音書18章37節)

 これはイエス・キリストのことばです。真理とは、私たちの見えない真実を言います。

 

今は、科学技術が発展して様々なことが解明されてきました。しかし、一つのことが最先端技術で解明されても、また幾つもの疑問が浮かび上がる現実はあまり伝わってきません。実際にはわからないことだらけの中で私たちは生きています。

 

イエス・キリストは、神から遣わされ、真理を証するためにこの世に来られた方です。 

神について、いのちについて、また死後の永遠の世界について、真理を伝えるためにイエス・キリストは人となって来てくださいました。この方のことばと行動は、神がどのような方か、また神が私たちをどうご覧になっているか、どのように思っておられるのかを明確にに伝えています。

 

聖書はイエス・キリストについて証言している書物です。この方がなぜ十字架の上で死なれたのか、それは私たちと深い関係があることです。集会所に来られてご一緒に聖書を開いてお考えになってください。

 

 

「心」の語源は凝々(ころころ)から来ているそうす。

実際、人間の心ほどコロコロと転がりやすいものはありません。重力によって球体が下に転がるように、人間の心も下に転がるようです。

 

人は成長とともに知性は向上しますが、心においては坂を下る傾向にあるように思えます。社会人よりも学生のほうが正直で、中学生よりも小学生のほうが素直です。子どものころに罪悪感を感じたことも、大人になると仕方がない、さらに当然だと考えるようになります。それが人の本質なのだと思います。

 

イエス・キリストは、人の心について次のように言われました。

「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出てきます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコの福音書7章20~23節)

 

善悪を正しくさばかれる神様は、このようなことを罪に定めます。人間に善悪を知る良心があるのは、人に必要なものとして神が与えられたからです。それは、人が神様に対して責任を持っていることの証拠です。

 

私たちは死後に、神様の前に出て自分の行いについて弁明しなければなりません。私たちが、神の前に自分の正しさをどう言い繕っても、それによって正しいと認められて、天国に入ることはできないのです。

だからこそ、神様は私たちの救いのためにイエス・キリストを遣わしてくださったのです。

 

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」         (ローマ人への手紙 3章23、24節)

 

ぜひ集会にお越しくださり、この救をお知りになってください。

 

 

 

  一粒の麦

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(ヨハネの福音書12章24節)これはイエス・キリストのことばです。

当時の人たちはこの言葉を聞いてどう思ったでしょうか。「一粒の麦が死ぬ」とは何のことか、「豊かな実を結ぶ」とはいったい自分たちと何の関係があるのかと首をかしげたのではないでしょうか。

今日、初めて聖書のことばを聞く方も、同じように何のことかよく分からないと思います。何の説明も無く理解できる人はいないと思います。

イエス・キリストは「一粒の麦」をご自身に例えて言われ、「死ななければ」とは十字架の死を指して言われました。イエス・キリストが十字架で死なれたことは多くの人が知っている事実です。しかし、大切なことは、その事実が私たちとどのように関わりがあるのかということです。「豊かな実を結びます」とは、私たちについて言いわれたことですが、このことについて少し考えてみましょう。

 「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと・・・」(コリント人への手紙第一15章3、4節)

 イエス・キリストの死が、私たちの罪のためとはどういう事でしょうか。聖書は私たちの罪についてこう教えています。

 「神を求める人はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用な者となった。・・・彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ人への手紙3章11、12、18節)

 聖書は、すべてのものを創造された生ける神を私たちに伝えています。私たちの神に対する不敬虔は、神の前に罪として覚えられていることを教えています。

それゆえ、イエス・キリストは私たちの罪のために死んでくださり、そして墓から三日目によみがえられました。この方が私たちの代わりに十字架の上で私たちの罪の処罰をお受けになり、死んでよみがえりました。それは、イエス・キリストを救い主と信じる者が、神の約束によって新しいいのち(豊かな実を結びます:天国)に生きるようになるためでした。 

 

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテへの手紙第一2章4節)

 神は正しい方です。すべての罪を正しくさばかれる方です。それゆえ神は、神のひとり子であるイエス・キリストを私たちの救いのためにお遣わしになり、私たちの代わりに罪を負わせて十字架の上でさばかれました。これが神がなされた十字架の本当の意味です。

 キリストは葬られ、三日目によみがえったことが聖書に詳細に記録さています。信じがたいことですが、これも事実です。

神によってなされた救いが真実であると証明するために、神がキリストを死者の中からよみがえらせました。この事実は私たちと深い関りを持っています。

聖書は、イエス・キリストを信じる者は、さばきに会うことがなく、必ず、神のみもと(天国)に行くことができると、神の約束を伝えています。